~制度では拾いきれない”現実”について~
ペットに関する議論の中で、
「飼う資格」や「制限」といった言葉が出てくることがあります。
ただ、その線引きの外にある現実は、あまり語られることがありません。
経済的な理由から、飼いたくても飼えない人。
やむを得ない事情で、手放す選択を迫られる人。
そして、事情を抱えながらも、
それでも手放すことができない人もいます。
その延長線上にあるものとして、
いわゆる多頭飼育の崩壊といった問題が表面化することもあります。
一見すると、極端で特別なケースのようにも見えますが、
その背景には、事故や病気、
また、自分ではどうしようもない外的な要因が重なっていることもあります。
「余裕のない人は、そもそも飼うべきではない」
そうした意見も、もっともに聞こえます。
けれど、現実には、そうした状況にある人にとってこそ、
ペットが生活の支えになっている場合もあります。
孤独の中での話し相手であったり、
社会とのわずかな接点であったり。
その存在があるからこそ、
なんとか日々を保てている、という側面もあるのです。
では、そうした人たちを、
単純に「飼うべきではない」と切り分けてしまってよいのでしょうか。
実際に、支える方向での取り組みも、少しずつ始まっています。
京都市では、
ペットと暮らすことに不安を抱える人に向けて、
「飼い続けるための支援」と「飼い始める際の支援」の両面から、
実証的な取り組みが行われています。
(参考:https://open-labo.city.kyoto.lg.jp/report/report-1556/)
制限するのではなく、
どうすれば共に暮らし続けられるのかを模索する動きです。
こうした取り組みは、まだ一部にとどまっていますが、
現場ではすでに、同じような課題が共有されつつあります。
「飼う資格」を問うことは、
一つの整理の仕方かもしれません。
ただ、その前にある現実は、
制度だけで切り分けられるほど単純ではないように感じます。
実際に公的な支援が届くのは、
多くの場合、「声が上がったもの」に限られます。
けれど、本当に厳しい状況にあるほど、
その声すら上げられないことも少なくありません。
そして、ペットたちもまた、
自分の状況を言葉で伝えることのできない存在です。
飼う資格を問う前に、
支え方そのものを見直す必要があるのかもしれません。
